本も読んだ。講座も受けた。自分軸も、執着も、手放すことも知っている。
それでも、強く言われると言葉を飲み込み、断ろうと思っていたのに、また引き受けている。
夜になって「分かっていたのに、なんでいつもこうなるんだ」と自分を責める。
わたし自身もこれ、人生の中で何百回やってきたかわからないです。無意識でしたから。
こんなとき必要なのは、知識をもう一つ足すことではなく、知っていることなのに使えない、その場の自分を認識することなのです。
も く じ
Toggle説明が上手になるほど見えなくなることもある
「これは私の執着です」「手放せばいいんですよね」。言葉にできると、理解した感じがしますよね。
けれど、その説明の手前には、断られるのが怖かった、悲しいと言えなかった、認めてもらいたかった、という具体的な自分がいることがあります。
だから、知識として学んだ言葉で早く片づけるほど、その自分は置き去りになるのが落とし穴なんですね。
分かったつもりで、その奥にある思いには気づいていない。私がここで伝えているのは、そうした無意識の働きです。
だから、説明がつくことと、自分の中で何が起きたかを認識することには、違いがあるわけです。
「分かった」は、そこで終える言葉にも、現実で確かめ始める言葉にもなりますけどね。
今さら分からないとは言いにくい
長く学んできた人や、理解の早さを頼りにしてきた人にとって、「自分はまだ、同じことで苦しんでいる」と認めるのはつらいこともあります。
だから、本当は困っている自分よりも、分かっている自分を前に出したくなる。これは誰にでも当てはまると決めつける話ではありません。
ただ、ここに思い当たるなら、次に買う本を探す前に立ち止まる価値があります。
本当に変えたいのは、学びの経歴でしょうか。
それとも、目の前の人に言いたいことを言えず、帰り道に悔しくなるあの日常でしょうか。
わたし自身も「なんでいつもこうなる?」と考え続けてきて、知識もたくさん得てきましたが。
それでも、人前では、「大丈夫なわたし」「色々知っているわたし」を演じていましたね。
なにやってたん?と思いますけどね。
当時は、そうしている自分に気づいていなかったんです笑
現実に残っている苦しさを認めることは、これまでの学びを無駄にすることではありません。
ただ、「苦しいことは認めているけど?」と思っていても、その場で何を怖がり、何を飲み込んだのかまでは、見えていないことがあります。そこを、自分の現実の中で認識していくのです。
私も本を集めていた
私自身、霊性開花をしてから、真理を扱う本を集めていた時期があったのです。この先、どこへ向かえばいいのか。あるいは、どうなればいいのか。
そんな答えを期待して。
でも、読んだだけでは「これだ」とはならなかったんです。
そもそも、わたしが選んだ真理の本は、開いて数ページで眠くなる本が多くて…読むことからして修行。
挑戦はしましたが、答えに辿り着くことはできませんでした笑
結局、自分の無意識と、実際に生きている現実に向き合うことが必要でした。言葉は、自分の代わりに道を歩いてはくれないのですから、当然の結果でした。
だから今の私が提供している有料講座、命響∞meibi®なども、映像を見て理解するだけで終わる学びにはしていないのです。
わたし自身が、一人で普通に取り組むだけではつまらないと感じるから、専用AIとともに、「あーでもない、こーでもない、こうや!」って言いながらワークに取り組んでいただき、現実で実践し、自分を見つめる力を育てていきます。
わたしたちは、「お勉強」を教わってきましたけど。
本当に大切なのは、身体を使った体験や実践なんですよね。
英語とかもそうじゃないですか。
文法を説明できることと、目の前の人と会話できることは、同じではありません。
真理の学びにも、知ったことを実際に生きてみることが必要なのです。
一年後も同じ場面で苦しまないために
知識を集めるだけという学びを続けているのなら、一年後、本棚が増えても、断れない場面は残ったままかもしれません。
目指したいのは、二度と迷わない自分ではありません。揺れたときに自分に何が起きているかを見つめ、以前と違う選択を重ねていける自分です。
引き受ける前に考える。言えなかった本音を、自分で認める。その変化が暮らしに積み重なり、現実の変化につながっていきます。
知識を得たら、体験し実践すること。
それが本来の自分へ還る近道です。






