幸せになりたい。安心したい。愛したいし、愛されたい。自分の命を使って、何かを創りたい。
それなのに、「幸せを求めるから苦しくなる」「幸せになろうとするから不幸になる」と言われると、その願いさえ持たない方がいいのかと、戸惑うことがあります。
外側の評価や成功だけを追い続けることと、幸せを感じながら生きたいと願うこと。その二つを、同じものとして扱ってよいのでしょうか。
も く じ
Toggle「幸せになりたい」という願いまで、手放す必要があるのか
誰かに認められたら。もっと結果を出せたら。愛してもらえたら。その条件を満たすことだけが幸せになると、届かない自分や、失うかもしれないものが気になってしまいます。
けれど、そうした苦しさがあるからといって、安心したい、喜びたいという気持ちまで否定する必要はありません。
私は、幸せになる道が見えないことと、幸せになろうとすること自体を否定することは、分けて考えたいのです。
数字にならない働きを、小さく扱っていないか
仕事では、売上や人数、速さのように、数字で示せる成果が評価されます。一方で、誰かが言葉にできない痛みに気づくことや、その人が安心していられる場を支えることは、目に見えにくい。
家庭でも、人間関係でも、「気が利くね」「優しいね」で終わってしまう働きがあります。けれど、その気づきによって支えられてきた時間や関係もあるはずです。
私たちは、見える成果を育てる一方で、感じ取っているものを小さく扱ってこなかったでしょうか。幸せまで、外から確かめられる条件だけで測ろうとしていないでしょうか。
感じすぎて疲れる自分を、責めてきた人へ
私自身、人と会うだけで多くのものが流れ込んでくるように感じ、家で一人になって、ようやくほっとする時期がありました。当時は「HSP」や「エンパス」という言葉も知らず、普通の人のように生きられない自分が悪いのだと思っていました。
だから、感じることそのものをなくしたくなる苦しさは、私にとって遠い話ではありません。
ただ、人の様子や場の変化を受け取る働きを、消耗の原因という理解だけで終えてよいのでしょうか。そこには身体の反応、経験、直観など、さまざまな働きが重なります。魂氣学®では、それらをすべて一つの力として扱ってはいません。
大切なのは、自分が受け取ってきたものを、ただの弱さとして片づけないことです。自分自身が何を感じているかにも、目を向けてみたいのです。
知識が増えても、置き去りになっているものはないか
今は、愛も、境界線も、無意識も、たくさん学ぶことができます。説明できることが増えると、自分もそこへ辿り着いたように感じることがあります。
でも、愛について知っていることと、愛を受け取れることは同じではありません。幸せについて考えることと、日々の暮らしの中で幸せを感じることにも、隔たりがあります。
知ることも、考えることも大切です。では、その知識と、自分が感じながら生きることは、どう結ばれていくのでしょうか。
動画では、HSP・エンパスと呼ばれる人たちの「感じる力」を入口に、私たちが育ててきたものと、置き去りにしてきたものを見つめています。「知識の実だけ、食べ放題」というたとえから、その先の道へつなげてお話しします。







