本当は、もう帰りたかった。これ以上、相談を聞く余裕はなかった。それでも、「愛があるなら受け止めよう」と、その場に残った。
相手は少し元気になったのに、自分はぐったりしている。そんな日が重なると、優しくありたい気持ちまで苦しくなってきます。
「みんなひとつ」という言葉の中に、自分が嫌だと言える場所はあるでしょうか。
も く じ
Toggle理解することと、引き受けること
相手がつらかったことは分かる。事情があるのも分かる。だから断れない。自分が離れたら、見捨てたことになる気がする。
そのとき、相手の苦しみを理解することと、それを自分が抱え続けることが、ひと続きになってはいないでしょうか。
大切にしたい気持ちがあっても、自分の時間や体力には限りがあります。その現実を伝えることまで、愛の不足として扱う必要はありません。それでも、断ろうとすると罪悪感が生まれる。その隔たりは、どこから来るのでしょうか。
痛みを話したのに、自分の未熟さの話になる
傷ついた出来事を伝えたら、「それも学び」「あなたの投影」と返された。言葉の意味は分かる気がする。でも、何が起きたかは一緒に見てもらえなかった。
学びという言葉が出たからといって、現実の行為や約束が消えるわけではありません。内側を見ることと、相手の行為を確かめることは、どちらも残しておけます。
自分の反応だけを直そうとして、話したかった出来事そのものが見えなくなってはいないでしょうか。
つながりの中で、自分はどこにいるか
魂氣学®では、境界線を相手への冷たさとして扱いません。つながることを願うからこそ、自分を消さずに関われるかを見ていきます。
動画では、ワンネスや愛という言葉が、なぜ境界線を曖昧にする場合があるのか、その使われ方をたどります。
誰かを受け入れるたびに、自分だけが小さくなる。その違和感を、器の小ささで終わらせないための話です。







